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 ミーさん作品 特別作品 ■ミーの半生記『第1章 青い性』(その1)                               Back Top Next

ミーの半生記】
先ず これは小説ではありません、私の歩いてきた半生の出来事を忠実に書き現したものです。
この体験記を投稿する気持ちになったのは、
私の露出趣味によるものですが、事実は小説よりも奇なりの言葉通りの性体験を何かに残したいとの思いが強く迷った挙げ句投稿するに至ったものです。
文中名前や場所は現実に存在するので仮名を使いました。どうかその辺の事情を察してお許し下さい。

『第1章 青い性』(その1)
私は昭和16年2月2日 福岡県T市(現北九州市T区)に生まれました。3番目に生まれたんですが長男が早葬したため戸籍上では2男となってます。
当時 T市の生まれた在所は日本でも有数な遊郭街で私の家もその遊郭でした。父の代に遊郭を始めたが 祖父は侠客として地元では名が通っていたようです。

子供の頃祖父と一緒に町を歩いていると 皆が頭を下げて挨拶するので不思議に思えたものです。

私が生まれた年は日中戦争の最中で、その年の12月に真珠湾に奇襲攻撃を掛けて米英に宣戦布告をした年でもあります。
その年に流行った歌で「めんこい子馬」という歌があります。

♪濡れた子馬のたてがみを撫でりゃ両手に朝の露…


この歌を聞くと無性に子供の頃を思い出すんです。
その頃の私は純真な可愛い子供でした。
私を語る上で父、祖父まで語らなくては私という人間を理解出来ないでしょう。
祖父は四国の愛媛県周桑郡小松村の出身です。
祖父の話では、明治の終わり頃から海外移住が活発になり、祖父も村の若い者と一緒にブラジルに移民するつもりだったそうです。
只、金がなかったので、当時八幡に製鉄所が出来て働き口が有るとの理由で、村の者とこちらに出て来たんだそうです。
八幡製鉄所で働いている時に石炭ブームが起こり、筑豊の炭田から若松まで搬送された石炭を艀で本船に積み込む荷方作業が注目を浴び、祖父もこれに目を付け製鉄所で溜めた金をすべて注ぎ込み ごんぞう組(石炭荷方をごんぞうと呼んだ)を起こしたそうです、もしブラジルに行ってたら今の私も存在しなかった訳で運命の不思議さを感じます。
M組を起こしたのは祖父と3人の兄弟で祖父は末弟なので旗頭は長男でした、祖父は温厚な性格だったのであまり目立たない存在だったようです、この辺の事情は小説家の日野葦平作の「花と竜」「美しき地図」を読まれた方が良く分かると思います。
「花と竜」は映画でもお馴染みですが現本は脚色なく書かれていて 当時の若松の様子がよく分かります、この中にM組のことも載っています。
因みに日野葦平は「花と竜」の主人公玉井金五郎の子供です、又 玉井金五郎は祖父と一緒にブラジルに行くつもりで一緒に村から出てきた仲間の一人です。
他には「女侠一代」の島村ぎん(どてら婆さんで有名)など若松で活躍した人が多いんですよ。
その後利権を巡って勢力争いの大きな喧嘩がありM組の長男が殺されました、その事からM組は若松から撤退しT市に地盤を移して勢力を維持したんだそうです。
私の幼い頃、祖父から昔話しを聴くのが楽しくて あまりに熱中するので母からよく怒られたものです。
祖父の話では 祖父の上の兄と一緒に組を上げて芸者遊びをして大散財していたようで後に没落の原因となったのも この遊び癖の所為だったんです。
当時、国策から一番は東京、2番は若松、3番に大阪と云われるほど国からの金が落ちていたんだそうです。
温厚な祖父てすが、淫蕩で露出癖があったようで、平気で人前で女とセックスしていたんだそうです。
その淫蕩な血が、父から私へと引き継がれたと思っています。遺伝でしょうね(そのように解釈して自己嫌悪から逃げてるんですよ 笑い)。



私の家が遊郭になったのは父の代で昭和の初め頃との事です。
終戦後も遊郭だけは生き残り、民主主義の中で唯一非民主主義な特殊な存在でした。

セックス産業が形を変えても絶対に無くならないのは人間の本質に絡むもので、性犯罪がある程度防げることに起因すると思っているんですよ。
ともかく私の家族が生き抜けたことだけは確かで、青春時代は反発心だけが強い惨めな気持ちと逆に若い同世代の者が知らない事を知っているという優越感とが錯綜して複雑な気持ちでした。
戦争中、私は3歳から6歳まで親元を離れて祖父の故郷の寺に疎開しました。
お寺では他にも沢山の子供がいて集団生活をしていましたが、その頃の記憶は断片的に覚えているくらいですが他人への思いやりや優しさを この時代に培われたと思っているんです。
終戦後食糧難の中、小学校に入学のため戸畑に帰りましたが 配給の食糧が行き渡らない頃だったので両親は大変だったと思う。
私自身は父母と兄や弟と一緒に生活できる喜びで父母の苦労をよそに毎日が楽しくてしょうがありませんでした。
その頃、祖父は隠居生活していて、近くの家に祖母と一緒に住んでいたので、良く遊びに行きましたが、祖母が厳格な人で、私や兄弟が行くと、忙しいと怒られるので怖い記憶だけが残っています。私が10才の時にその祖母が亡くなりました。
悲しみよりも これで祖父といつでも遊べると喜んだものでした。
今考えると祖母の厳格さが私が女嫌いになった原因の一つだった気がします。


私は祖父が好きでした。温厚な人でしたが淫乱で祖父の膝に乗り昔話を聞くわけですが、必ず女の話になるんです。
そして、私の股間をまさぐり、子供ながら勃起したチンポを愛撫するんです。


その頃はまだセンズリも知らなく、射精も出来ない本当に子供でしたが、祖父からの弄根の気持ち良さは十分に分かり、それを楽しみに毎日通いました。

私が今標準以上の太く長いチンポになれたのも祖父のお陰だと確信しています。


私が12才の時、祖父の手で初めて射精しました。
いつもと違う突き上げるような快感と、頭が弾けるような感覚の中で、数メートル先の畳にチンポから飛び出た液体を見た時、私は痺れるような気持ち良さと同時に恐ろしさを覚えました。



祖父は「おー 出た出た」と喜び「大人になったの 大人になると出るんやけんの心配せんでいいんぞ」と私を安心させてくれました。

そのまま勃起を続けるチンポを再び弄根して、立て続けに2回射精させてくれました。
祖父はその後で「おじいちゃんも出すけの」といって着物の前をはだけ、褌を外してチンポをむきだしにしました。


祖父のチンポは子供の私には吃驚するほど とてつもなく太く長くみえました。

その頃、祖父は60才くらいだったはずです。
まだ男として十分通用する、見事なそそり立つチンポを初めて見た私は、身体がブルブルと小刻みに震えながらも目が祖父のチンポから離れませんでした。


大人の勃起チンポを初めて見たのは私が8才の時でした。
遊郭に遊びにきた黒人のMPでしたが、祖父のチンポも黒人に引けを取らない見事なものでした。


祖父は右手でゆっくりと掻きはじめ、やがて激しく上下に擦っていたが左手で私の右手を掴み、祖父のチンポを握らせて、そのまま両手で握った私の右手ごと押さえて激しくストロークさせ、唸りながら掻きあげました。
手の平に祖父の生暖かくビクビク動くチンポの感触が伝わり、いつしか私も興奮して自ら手を動かしていたようです。


「ウワー出る出る出るー」
と、祖父が呻き声を上げながら、ドクドクとチンポから迸らせると、手の平がベトベトになるほど多量の精液でまみれ、私が呆然と見つめる中握ったチンポが時々ビクッと動き、そのたびに祖父が「アッ」と叫ぶ姿が今でもしっかりと目に焼き付いています。

その
祖父は、私が23才の時72才で亡くなりました。


第1章青い性・その2へ続く


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